国運の衰退
義人は見捨てられ、その子孫はパンを求める
口にしてはいけないこと
著者:給与明細
崇拝!イエスは使徒たちのおかげでイエスとなった (出典)
私は若かったが、今は老いた。解釈:私は老いた若者だった。文化の目的は天才を育てることであり、二番手や二流の者たちはあまり貢献しない。しかし、天才を育てるためには、広範な二番手層、つまり天才を崇拝する教養ある人々の層が必要だ。彼らは天才たちの親であり、妻であり、生徒や子供たちである。天才は周りに文化が必要で、文化がなければ天才にはなれない。だからこそ、天才が多く現れる時代がある。今日の問題は:二流の者たちが自分を天才だと思い込んでいることだ。天才と二流の差は、人間と動物の差くらいある。ここにヒューマニズムと啓蒙主義、特に民主主義の巨大な害がある - 大衆が動物であることを否定することだ。

群れをなす動物の本質を最も露わにするのはフェイスブックだ。なぜなら、かつて動物は話さなかったからだ。人々が同じ次元にいるという考えは、フラットなネットワークが推進した考えだ。そのため、一流の者と二流の者との対話は、人間と動物の対話のようだ - その動物は自分も同じ人間だと思っている。まるで、家族に加わった犬が、それが人間の家族だと理解できないようなものだ。ただし今回は、犬の群れに加わった人間の話だ。

一人の人間に対して百匹、あるいは千匹の動物がいる。これが才能や天才性の統計的な意味だ。かつては人間だけが書いていたから、読むのは簡単だった。動物たちの非識字をなくすという、義務教育のプロジェクトが進むにつれ、群衆の中から人間を見つけることが難しくなった。学校の目的は人々に読むことを教えることだったが、実際に起きたのは、人々が書くことを学んだということだ。そして今日では、読むより書く方が多い。もはや現代のものを読むことすらできない。文化のフィルター機構はすべて、ゴミで詰まってしまった。このような状況に耐えられるフィルターは存在しない。

そのため今日では、天才を取り巻く文化的基盤が消失した。誰もが天才だ。つまり実際には皆が動物なのだ。なぜなら、基盤も環境も育成も崇拝もなしには、もはや天才は育たないからだ。今日では人間への崇拝はもはや存在しない。神に対する世俗主義よりもはるかに危険なのは、人間に対する世俗主義であり、今日、人間は世俗化された(だからこそ超正統派ユダヤ教の文化では、まだ天才という現象が存在する)。天才性は個人的な現象ではなく、システム的な現象だ - それはシステムの中の個人的現象であり、個人のシステムではない。天才性は絶滅の危機にある - むしろ大衆教育の過剰さゆえに。ヒトラーでさえ作家だった。本を書いた!かつては、モーセのような人物でなければ本は書けなかった。エジプトを出た全員が自分の体験について本を書いていたと想像してみよ。私たちにトーラーは存在しただろうか?

フェイスブックであなたに書き込む人は、あなたと同じ次元にいると思い込んでいる。それは間違いだ。人は自分より賢い人を見分け、その人から学ぼうとする必要がある。これが今日欠けている謙虚さだ。だからこそ天才たちは往々にして他人より謙虚で、傲慢さは最大の社会的罪悪なのだ。すべての人が同じ次元で議論し、巨大な格差は存在しないとする知性コレクト[インテリジェンス・コレクト]な言説は、ポリティカル・コレクトよりも抑圧的だ。動物たちに、彼らが動物だと言ってはいけない。なぜなら彼らは人間だから。だから文化はもはや存在しない。だから、常に抑圧され、社会的受容のために謙虚さを示すよう求められている天才たちは、謙虚さを止めるべきだ。なぜなら天才[ガオン]は誇り[ガアヴァ]から来ているからだ。これが文化の再建への第一歩だ。

巨大な宣伝機構が、たとえそれが正しい場合でも、あなたが他人より優れているという考えを抑圧する。その結果、多くの人々が、その考えが間違っている場合でも、自分は他人より優れていると考える。では、はっきりさせよう。あなたたちは私より愚かだ。統計的に、このテキストを読む人は誰も、このテキストを読まないだろうが、書き手より愚かだ。書き手より無知だ。書き手より創造性に欠ける。たとえ特定の分野で書き手より詳しい人でも、書き手の知識の広さと能力は持ち合わせていない。ここから始めよう。
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